2019/2/6

再び、ちょっと一息

 事務局のつぶやき

 事務局広報担当と言う立場もあり、今日はその取材も兼ねて鷹取山に足を運んでみた。JR東逗子駅の改札口を出て直ぐ脇にある踏切を渡ってそのまま100メートルほど直進すると、上り勾配の道の途中に立てられた天台宗神武寺と刻まれた石票を右に折れて急坂の表参道に入った。辺りに孟宗竹や様々な木々が鬱蒼と生い茂る森を抜けると、参道の両側に大木が生い茂るひっそりとした細い道が現れた。桜の大木が朽ちて往時を計り知ることは出来なかったが、数十年前は大勢の人たちで賑わう程の桜並木であったと言われている。凝灰岩が露出する表参道は雨が降った後はかなり滑り易い。足下に気を付けながらその参道を歩いて行くと岩を削り出したままの石段があり、その途中に一体のお地蔵さまが参拝者の安全を見守っていてくれる。頭上のお地蔵さまに一礼して大木が生い茂る寂し気な参道を歩いて行くと、程なくして目の前に柱が朽ちた銅葺き屋根の総門が現れた。総門は西暦1,773年に東逗子駅の踏切の辺りに建てられたものであったが、第二次世界大戦中に参道の入り口辺りに移され、その後西暦1,975年に三度現在の場所に移された。戦禍を逃れたその歴史ある総門をくぐると、鬱蒼と生い茂る深緑の木々の中に鐘楼の銅葺きの屋根が真正面に現れた。近づいて行くとその手前の左手に、高さ十メートル程はあろう岩山を切り開いた切通しの奥に、ひっそりと佇む神武寺の本堂を垣間見ることができた。一般の人は立ち入り禁止となっているためにその全容を計り知ることは出来なかったが、西暦724年に創建され、1,300年余りの悠久の年を経た由緒ある仏閣である。

 神武寺本堂脇の高台にひっそりとした佇まいを見せる鐘楼の石段を上って行くと、神武寺の晩鐘と謳われた逗子八景の一つに指定されている鐘楼の正面に出た。鐘楼は西暦1,859年に造られたものであるが、風雨に晒された悠久の年月を経た今でも往時の佇まいが鮮やかに蘇ってくる。

 余り人が訪れないその静まり返った参道を真っすぐ進んで行くと、正面の岩盤をくり抜いた祠の中に、お釈迦様と六地蔵が祀られている苔むした一画が現れた。六地蔵は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間界、そして天の境界の六道のそれぞれの守り神である。私も自分の一生の業(カルマ)によって、何時かはこの内の何方かの下でお世話にならなければならないお地蔵さまとお釈迦様に深々と一礼して左側の石段を上って行くと、西暦1,761年に造られた楼門がゆっくりと頭上から下りて来た。左右から怖そうな面構えをした金剛力士像の仁王様に睨まれながら恐々一礼して楼門の敷居をまたいで境内に入って行くと、直ぐ目の前に西暦724年、聖武天皇の命により薬師三尊や十二神将像、行基菩薩像が安置された小さな薬師堂が現れた。現在の銅葺き屋根の薬師堂は西暦1,598年に建て直されたとの記録がある。何れにしても長い悠久の歳月を経て現在に至る、神奈川県及び逗子市の重要文化財に指定された古寺である。
 
 その薬師堂に一礼して厳かな境内を左に進んで行くと、風化の進んだ石段の先に草木に覆い隠されそうになった女人禁制の石票があった。そしてその下には、辺りに生い茂る高木から漏れて来る木漏れ日に浮き上がった急登の石畳の山道が、小高くなった丘の上まで続いていた。修験者泣かせの滑り易い凝灰岩でできた石畳は今も昔も変わらず、ちょっとでも自分の心に煩悩が浮かぶと途端に足を滑らせて転んでしまう厄介な石畳だ。曲がりくねった100メートルほどの石畳を息を切らせながら何とか登り詰めると、西暦1,906年に建てられた菱形の苔むした石碑が出迎えてくれる。
 
 丘の上には往時の修験者が使っていたのか、何か柱の土台にしたような奇妙な形をした岩が道の真ん中にどっかりと置かれていた。不思議に思いながらその脇を通り、稜線上を心地良い風に頬を撫でられながら進んで行くと、程なくしてゴツゴツとした岩場のピークが現れる。運が良ければ此処で西側の木々の梢の間から富士山を望むことができる。鷹取山に行くにはその三叉路を右に進み、苔むしてゴツゴツとした僅かな岩場を下りて行くと、再び稜線上を辿る遊歩道になる。更に稜線上の遊歩道を進んで行くと、二つ目と三つ目の鉄塔が隣接した場所が現れ、その三つ目の鉄塔の下の急な石段を手すりに身体を預けながら下りた途端、前方を塞ぐように大きな岩が真っ二つに切り裂かれた切通しが現れた。人ひとりがやっとすり抜けることができる道幅の切通しを抜けると、右手に南側の景色を望むことができる展望台が出て来る。急ぐ必要が無ければ此処で、眼下に横浜横須賀高速道路を見ながら逗子郊外の新興住宅地を眺めるのも良いだろう。汗が引き始めたら再び遊歩道に戻り、其処を左に曲がるとこの遊歩道で唯一の鎖場だ。四つ目の鉄塔が立つ山頂から凝灰岩の切れ落ちた斜面の中ほどに造られた狭いトレールは、滑り易く、通り抜けるには細心の注意が必要だ。大都会の近郊にも関わらず、このように本格的な鎖場のトレールを体験できるのは貴重だ。そしてその鎖場を通り過ぎると、目の前に岩を階段状に粗削りした急登の遊歩道が出て来た。
 
 その急な岩場を登り詰めると遊歩道は三叉路になっていて、右に少し進めば南側を望む展望台に出ることができる。時間に余裕のない人はそのまま左の遊歩道を辿って行くと、切り立った崖の上にコンクリートでできた手摺りで仕切られた狭いトレールが出てくる。其処を道なりに進んで行くと、凝灰岩を粗削りしたままの、滑り易い苔むした階段を下りた辺りから鷹取山の特徴を垣間見ることができる。
 
 この辺りに鬱蒼と生い茂る高木の葉の間から、左手頭上にアルパインクライミングの高さ20メートルはあろうゴツゴツとしたゲレンデを望むことができる。此処では時折り、この地域の消防や海上保安庁の隊員たちのきびきびと緊迫した掛け声が聞こえる訓練に出くわすことがある。隊員たちは日々このような険しい岩場で地道な訓練を積み重ね、いざと言う時に市民の命を守ってくれているのである。感謝の気持ちを込め、彼等の訓練を邪魔しないように足早にその下を進んで行くと、一気に鷹取山親不知南面フランケ直下に躍り出る。
 
 此処には高さ20メートルはあろうフリークライミング練習用の垂直の岩壁があり、その下には日曜日ともなれば足の踏み場もない程のクライマーで賑わう広場がある。しかも平日には高齢者の、それも女性のクライマーが数多く岩壁にへばり付いている場所でもある。鷹取山山頂にはこの親不知エリアの他に子不知エリア、後浅間エリア、前浅間エリア、そして桜エリアがあり、それぞれクライマーの技量レベルに応じて使い分けられている。此処は明治時代から昭和初期にかけて凝灰岩の採石場として名を馳せていたが、その後石材に代わる建設資材が開発されたために廃鉱となり、そのまま放置されてしまった。だが戦後になって井上靖が執筆した「氷壁」が登山ブームの引き金となり、採石場跡の切り立った岩場が岩登りの格好の練習場となった。だが軟質の岩盤ゆえに脆く、滑落事故が相次いだのか、今はピトン(ハーケン)の打ち込みは禁止されている。此処ではトップロープクライミング、即ち、上側に設置されたアンカーにロープを繋ぎ、それを下に垂らして身体に結び、もし万一滑落してもそのロープで身体を確保するようにした岩登りだけが許されている。そして此処は都会から近くてアクセス性が良いこともあり、現在でも休日ともなれば順番待ちになる程の賑わいを見せる岩登りのメッカである。
 
 しかし岩登りと一口に言ってもジャンルは幾つかあり、フリークライミング、エイドクライミング、アルパインクライミングの3つに大別される。更にその中でも幾つも細分化された呼び名もあるが、フリークライミングはトップロープとハーネス(腰に装着する安全ベルト)は装着するものの、それ以外のギア(登山器具)は使用せず純粋に岩登りだけを楽しむスポーツ性が高いクライミングである。またエイドクライミングは、岩にピトンを打ち込んだり、岩の割れ目にカムを差し込んでそれにアブミを取り付けたりしながら積極的にギアを使用するクライミングを言う。一方アルパインクライミングは、岩登りをすること自体が主目的ではなく、登山の途中に現れた岩壁をエイドクライミングしながら山頂を目指す登攀のことを言う。従って、アルパインクライミングは厳密に言えば、フリークライミングやエイドクライミングとは別の性格の分類である。
 
 大勢のクライマーで賑わう鷹取山山頂直下のこの親不知エリアの脇を通り抜け、その反対側にある階段を息を切らせながら登って行くと、山頂にある標高139メートルの展望台に出ることができる。息を切らせながら、此処まで登って来た達成感を心に秘め心地良い風に頬を撫でられながら北側を望めば、大都会の街並みが遥か彼方に続く眺望が見渡す限りに広がっている。条件が良ければ此処から東京スカイツリー、更にその遥か彼方にある筑波山をも望むことができる。また羽田空港や木更津の工業地帯を辿りながら地平線を右の方向に視線を転ずれば、横須賀軍港や横須賀の街並み、遠くは東京湾や房総半島の山々まで見渡すことができる。更に南側に目を移して行けば、我が住み慣れた逗子の街並みの静かな佇まいを望むことができる。更に、西側には高圧送電線の鉄塔の間に富士山や丹沢山系の山並みを一望することもできる。日頃の運動不足を解消するために、休日に家族揃って訪れるには絶好の場所である。
 
 最近は此処でアメリカ人の家族や中国人、韓国人の若者たちの姿を目にすることが多くなってきた。だがもっと逗子の若者達にも此処を訪れてもらい、そして此処で得た多くの知識を基に、その歴史ある逗子の史跡を広く世間に広めて貰いたい、そう願うのは、何時の間にか老いを感じ始めてしまった私だけであろうか。此処に来るまで東逗子駅からゆっくり歩いたとしても片道一時間ほど、此処でも逗子の古い歴史を垣間見ることができた小さな旅であった。
 
 その時の写真は以下のショートカットからご覧ください。
 

                                               ( 事務局 )