2019/2/23
|
|
逗子市民防災セミナーを受講して |
|
(事務局のつぶやき) 一昨日、北海道厚真町が再び震度6の地震に襲われたからと言う訳ではなかったが、いつ自分の身に災害が降りかかってくるかも知れないと言う思いから、今朝、逗子市庁舎で行われた市民防災セミナーを受講してきた。会場には定員の100名に届きそうな程の市民が集まった。だが其処に集まった顔ぶれは、案の定お年寄りばかりであった。しかし心配するには及ばない。きっと若者たちは学校や職場で定期的に訓練が行われている筈だ。それよりも心配なのは、街中で商売をしている人たちだ。彼らは店を開けなければならないため、防災セミナーに参加することすらできない。そんな人たちをどう救済するのか、これから考えなければならない。 セミナーの冒頭、桐ケ谷逗子市長が挨拶され、市役所が機能していない17時から翌朝の9時まで、更に土日、祭日も加えれば一年間の内約8割が機能していない。そのような空白の時間帯に災害が発生した場合のことを憂慮されているのだ。その理由は、職員の約7割が逗子市外に居住しており、残りの3割の職員で市役所が機能するのか、それを心配されているのである。何とか早急に対応しなければならない問題だ。だがご自身が東北大震災でボランティア活動をしていた時の経験を基に、きっと最善の策を見出してくれるのではないだろうか。飛行機に乗っていてもそうであるが、緊急脱出扉近くのお客様には緊急時の手助けを依頼している。災害時には近くの住民の力を借りるような方策も一案であろう。そのような人たちは今回のようにセミナーを受けた登録者を充てれば、ある程度可能ではないだろうか。人は誰でも他人の為になることをしたいと思っている筈だ。その気持ちを汲み取るような対応策が取れないだろうか。 セミナーの講師は、震災時に青森県八戸市災害対策本部のグループリーダーをされ、現在は八戸市農林水産部所長をされている茨島氏が当時の貴重な経験を基に話しが進められた。専門家やマスコミ関係者とは違い、やはり実際に災害を経験された人の話には説得力がある。万全の体制で取り組んできた防災対策も、実際に災害が起きてみると、環境の違いにより殆ど機能しなかったものもあった。そして万全と思って体制を組んでいたことが、却って人的被害を増大させる結果になってしまったことを悔やんでいられた。それは、平常時はそれぞれの仕事を持っていながら災害時には市民を守る立場になる消防の組織だ。「津波でんでんこ」、即ち、津波が来たら他人のことよりも先ず自分が逃げろ、昔からそう教えられて育ってきたが、いざ地震になれば消防として港の防潮堤や河川の水門を閉ざす任務が求められている。その一家の大黒柱であろう人達が市民の命を守らなければならないと言う責任感で、危険を省みず、定められた規定に従って忠実に任務を遂行した為に192名もの消防団の人達が亡くなられると言う、実に痛ましい実例を紹介してくれた。 だがこれは震災に限らず、また危険度の大小に関わらず常に私たちの身の周りについて回る。火災の現場では燃え盛る炎の中に突入して人命救助に当たらなければならない消防士、事件が発生した時には狂気に満ちた犯人に立ち向かわなければならない警察官、災害が発生すれば土砂崩れや家屋が倒壊する危険性を省みずに人命救助に当たらなければならないレスキューや自衛隊員、冬山遭難が発生すれば雪崩の恐怖に慄きながら人命救助をしなければならない山岳救助隊員たち、この他にも危険に立ち向かわなければならない人がまだまだいる筈だ。そしてこれらの危険な現場に立ち向かわなければならないのは、殆どが一家の大黒柱となる男たちである。これらの男たちをの心を奮い立たせているのは一体何だろう、決して報酬や名声ではない。彼らの心を突き動かしているのは使命感や責任感、即ち人間の心の底から突き上げてくる情や衝動ではないだろうか。ところで人の心って何だろう、身体と言うハードウエアーに対して、そのハードウエアーに指令を出しているソフトウエアーって、一体身体の何処にあるのだろう。その話はまた別の機会にすることにしよう。 茨島氏のセミナーの中で、被災した当事者の心に失見当と言う症状が生じると言うのがあった。失見当とは、危険なことを危険と感じなくなる感覚を言うらしい。一種のクライマーズハイであろう。危険な岩場で、突然恐怖を感じなくなる状態を言うのであるが、身体の緊張感が解れると言う利点もあるが、注意力が低下してより一層危険が増してしまう恐ろしい状態だ。その失見当は10時間ほど持続するので、その間は周りの人たちは注意をして見守る必要があると言うのだ。そして更に正常性バイアスと言う症状も現れるらしい。それは自分の都合の良いように考えがちになり、自分の都合の悪いことは受け入れないようになってしまう。以前は大丈夫であったから今回も大丈夫だろう、そう都合良く解釈してしまうらしい。これを防ぐのはかなり難しい、常に客観的に自分の現状を捉えるのは不可能に近い。だから近くにいる人が、細心の注意を払って見守って行かなければならないのである。何れにしても、当事者だけでは防ぎようのない症状である。 氏は自分も被災者でありながら、支援を求めてくる人を援助しなければならない立場で感じたことに、時が経つにつれて被災者の援助の要請が増大する一方だが、行政の力には限界がある。一人ひとりが自分のことは自分でやると言う心構えを持つことが大切である、そう実感されたようであった。そして現在行政が行っている防災無線は環境の違いによって殆ど機能しなくなってしまうことがある。一番役に立ったのはラジオであったとの言であった。一方難聴の方に対しても、市民に最新の情報を提供しようとインターネットで伝えていたが、頻繁に情報を流していた為にスマホのバッテリーが消耗してしまい、いざと言う時に使えなかったと言う苦情が多く寄せられた。全く想定していなかったことが起きてしまった、と言った話も聞かれた。 このように実際に経験した人でなければ分からない状況を組み入れ、対策しなければならなくなってきた行政の苦悩は計り知れない。被災者の声の中に、「隣近所の人との普段(不断とも言える)の挨拶が一番の救助であり、心の支えでもあった」と言う言葉を聞いて、改めて人と言う文字を思い出した。一人ひとりが互いに支え合って初めて人になる、一人では生きていけないと言うことを。そして何時降りかかってくるか分からない災害に、普段から身の回りの危険な場所を把握し、そして咄嗟の時にどうすべきかを認めたチェックリストを作っておくことも必要ではないだろうか。 今回同時に配布された災害の備えのパンフレットの中にJアラートと言うのがあった。これは武力攻撃があった場合に避難を呼び掛ける防災無線であるが、それはそれとして、我が家では時たま家内の口撃に晒される場合がある。そうなってくるともう何も言い返すことができなくなってしまう。あれーっ、もうこんな時間だ。そうだ、K(家内)アラートが鳴らない内に早く家に帰って挨拶をしなくっちゃ、「ただいまー・・・」って。災害は降ってくる前に対応することが大切である、今日は実に多くの教訓を得た一日であった。 (事務局)
|
|