2019/4/8

春眠から目覚めてみれば・・・。

 ( 事務局からのお願い )
 
 ホームページを作成できる人を育てなければならないと言う思いから、ブログページに投稿してくれる人を首を長くして待っていたが未だに何の音沙汰もない。些か失望にも似た感情を抱きながら、既にスリーブモードに入っていた気持ちを叩き起こしてみたものの、頭の中は冬眠から覚めた時のように反応が鈍い。何について書いたら良いのか、なかなか良いアイデアが浮かばない。それならば・・・、と以前書いたブログを読み返してみた。すると現在の世相が浮かび上がってきた。それは子供の、いや、大人の方が遥かに酷い苦痛を感じているかも知れない、「いじめ」について考えてみたい。
 
 そう言えば、希望に満ち溢れ理想を追い求めて今年入学した人や入社した人たちが、現実との乖離に悩み始めている頃かも知れない。そしてゴールデンウイークが終わった後も、学校に通えなくなったり、出社できなくなる、所謂五月病に悩まさせる時期でもある。そのような人たちにも是非読んで頂きたい。
 
 つい最近、親が実の子供に体罰を加えて死なせてしまうと言う事件が相次いで起こった。子供を守らなければならない立場にある親が起こした事件だっただけに、世間の衝撃は計り知れない程大きかった。普通の親なら、会社で嫌なことがあっても家に帰って子供の顔を見た途端に気分はリセットされる。そんな天使のような我が子に手を上げることなど、どうしてできよう。以前のブログでも書いたように、子供は親に授けられたものではなく、神様からの大切な預かりものだ。その可愛い天使を身勝手に私物化しているのだ。昔は国中の人たち全てが貧しく、生活に困窮していた。だが心は大きく、しかも豊かであった。子供たちを地域全体で見守っていたし、悪いことをすれば何処の家の子であっても叱ってくれた。だが今は生活が豊かになったが、心は貧弱になってしまった。そして国中に比較社会が蔓延するにつれて、親は他人に負けたくないと言うプレッシャーが掛かっているのか、気持ちに余裕が無くなってしまった。もし他人の子を叱ろうものなら、突然親が出てきて食って掛かってくる。それではもう誰も余所の子供を見守ろうとはせず、陰で悪口を言うだけだ。
 
 それにしても、いじめが原因と思われる子供の自殺も後を絶たない。心を閉ざしたまま、誰にも打ち明けることができなかった心の内を、僅かな紙切れに書き残して先立っていった子供や親御さんの気持ちを思うと遣り切れない。何故今まで気付いて上げられなかったのか、後悔の念が渦巻いていることであろう。
 
 実はそう言う私も、以前会社内で誹謗中傷されたことがあった。それは前職で小さな地方組織に配属された時、職場で孤立させられてしまったのだ。三人の組織は上手くいかない、人が必ず二対一に分かれてしまうからだ。気が合わない、性格が合わないと言って除け者にされるくらいならまだ良い。それまで友達と思っていた男が、私に対して醜い僻(ひが)みや妬(ねた)みを持ち始め、やがてそれが憎しみに変わった。そして根拠のない噂をあちこちで流布し、上司を私から引き離し始めたのだ。やがて上司は私に対する見方が変わってしまい、ギクシャクとした間柄になってしまった。そればかりか社内で会う人すべてがよそよそしい。彼はあちこちで誹謗を撒き散らしていたのだ。私が前世で彼に恨まれるようなことをしたのか、私に対して執拗に攻撃を繰り返し続けた。
 
 止む無く別の上司に相談した時、返ってきた言葉に私は愕然とした。三人の組織だけに限らず、大きな組織でも必ず弱者が作り上げられると言うのだ。慰めなのか追い討ちなのか分からないが、的をついた回答に私はそれ以上もう何も言えなくなってしまった。その時以来私は人間不信に陥り、誰にも本心を打ち明ける気にもならなくなった。いや例え誰かに真実を伝えたとしても、今更言い訳をするな、そう言われることは目に見えていた。だから私は貝のように固く口を閉ざし、ただじっと我慢するしかなかった。そして恥ずかしさが先に立って誰にも言えなかった。もし子供であれば、耐えきれない程の孤独感に襲われていたことであろう。
 
 それにしても、いじめをする切っ掛けは、人間の劣等感に対する恐怖心にあると私は考えている。人は誰でも自分よりも劣っている人を見ると、自分の心に安らぎを覚える。悲しいかな、それが不完全な人間の性である。何処の国であったか記憶に定かではないが、欧州のことわざに 「他人の不幸は蜜の味」 と言う言い伝えがあるように、日本人だけでなく、人間なら誰しも抱いてしまう心理なのであろう。例えばテストで悪い得点を取ってしまった場合、貴方はどうするだろうか。たぶん自分よりももっと得点の低い人がいるさ、そう言って自分を慰めるであろう。人は常に自分より劣っている人を探し出そうとする。そして弱者を作り上げることによって組織の大多数の人たちは劣等感や不満から解き放たれ、組織の運営や人間関係が円滑になると言うのだ。弱者にされた人にしてみればたまったものではないが、それが現実である。一見すると組織がうまく機能しているかのように見えても、それは弱者の犠牲の上に立っているのだ。心ない何気ない言葉が、弱者の心を痛めつけていると言うことを忘れてはならない。
 
 それにしても、根拠のない悪意に満ちた噂は被害者を直撃する。だが卑劣なことに、噂を流布している人間には何のお咎めもない。いや、ただそれだけではない、噂を聞いた殆どの人たちはその噂の信憑性さえも疑おうとはしない。そればかりか、流布された噂は何時の間にか人々の心の中で真実に変わり、そして被害者の人間像を噂の色に染めていってしまう、所謂先入観である。そして一旦心の中に植え付けられてしまった先入観は、記憶の中からなかなか取り除くことができない。貴方は覚えているだろうか、1994年に発生した松本サリン事件のことを。当初まだオーム真理教が起こした事件と言うことに捜査が行き届かなかった頃、事件が起きた現場近くの家から薬品が発見されたと言う情報が独り歩きし、マスコミは被害者の一人であった男性を真犯人と決めつけてしまった。そして毎日繰り返し繰り返しテレビで見せ付けられていた日本中の誰しもが、報道によってその被害者の男性を犯人と思い込まされてしまったのだ。当時テレビのニュースキャスターが、あからさまにその男性を犯人と決めつけインタビューしていた姿を今でも忘れることができない、いや生涯決して忘れてはならない貴重な映像だ。そのニュースキャスターは、今ではちゃっかりと国会議員をしている。その時の身勝手な思い込みを省みず、今も声高に与党議員を追及している姿を見る度に、抑えきれない憤りが込み上げてくる。
 
 その後その事件はオーム真理教が企てた事件と分かり、真実が明らかにされた時のマスコミの対応は、自分達には否がなかったかのように躍起になって警察を悪者に仕立て上げようとしていた。身勝手な反面教師の姿は、今も昔のまま全く変わっていない。それにしても人の手が加えられた情報は恐ろしい、決して頭から情報を信じてはならない、常に疑ってみる心を持つことが大切である。噂だってそうだ、誰かから聞いた情報をそのまま、知らない間に自分が根拠のない噂を撒き散らし、いじめをしている張本人になっているかも知れないのだ。オレオレ詐欺の電話も然り、耳からの情報は鵜呑みにすると大変な結果を招く恐れがある。
 
 それにしても、現在の国会内での討論はいじめそのものだ。与党議員のちょっとした失言を取り上げ、あるいは別のことを言っている一部分だけを抜き取って、本意ではない発言を誇張して作り上げ、野党の国会議員が一丸となって与党議員をつるし上げる。そしてマスコミもそれを助長して騒ぎ立てている。自分たちは何をやっても許される特別な存在だと思い込んでいるマスコミの感覚は、一般の人たちのものとは大きく乖離している。そして同じような感覚の野党議員の先生方も、子供たちのいじめ撲滅を真剣に訴えている。だが彼らの行動を見ていると、言動と行動が全く伴っていない。国会での見苦しい遣り取りを見ている子供たちの目には、いじめはこうやるものだ、と言うお手本を見せつけられているようなものだ。これでは絶対にいじめはなくならない。
 
 前述したように、いじめは何処から来るのかと言えば、自分が抱く劣等感からの逃避だ。人種差別だってそうだ。全ては、自分は他人よりも優っていたいと言う願望、あるいは劣りたくないと言う恐怖心から始まる。この人間の性はどうすることもできない。だがこの欲望があればこそ、他人よりも優りたい、他人よりも上手くなりたい、他人よりも強くなりたい、他人よりも良いものを作りたい、そう言った向上心が、スポーツ界で世界のスーパースターを作り上げ、そしてこの地球上に目覚ましい科学の進歩をもたらしているのだ。
 
 それではどうすればいじめをなくすことができるのか、これはかなり難しい問題だ。人々の心から欲望を無くすことは出来ないからだ。だがいじめをなくすことができなくても、被害者を救うことは出来る。孤立している人からすれば、同情してくれる人の優しい言葉は有り難い。その言葉は、塞ぎ込んでいる人の心の扉を開いてくれるからだ。それでも、辛くて、辛くて仕方が無かったら、その時は誰かに打ち明けることだ。誰かに話すことによって心の中の苦痛は半減する。だが若しそれでも解決できないなら、私のようにこう考えてみてはどうだろう。以前私が誹謗中傷されて孤立させられた時に悩みに悩んで行きついた先は、この苦痛は神様が私を試しているんだ、この苦境は私の霊格を上げるための昇格試験なんだ、そう自分に思い込ませた。そしてそう考えるようになって、それまでの悩みが次第に取り払われ、一つ高い次元から物事を見ることができるようになった。霊格については、以前のブログで少しお話したのでそちらを読み返して頂きたい。
 
 そしていじめと必死に戦っている人たちだけではなく、何らかの理由で辛い思いをされている人たち、その人たちは皆、来世で一つ上の霊格になる試験を受けている、そう考えるようになった。だから辛い思いをされている人たちを見る度に、独りでに、「頑張れ、頑張れ、来世ではきっと天の境界に行けるんだよね」 そう心の中で応援するようになった。それは間接的に、自分に対する応援でもあった。
 
 同情することは出来ても、いじめられた経験のない人は、被害者の気持ちや苦しみを本心から自分のこととして理解することができない、それが人間の本質である。心理的なことに対して、人は目や耳から入ってくる情報だけで学び取れるような高等動物ではない。他人の失敗事例を自分のこととして捉えることができないのだ。何年か前に福岡で飲酒運転により相手の車と衝突して車を橋から転落させ、車に乗っていた幼い兄弟を溺死させてしまったと言う痛ましい事故があった。当時はセンセーショナルな事件として大々的に報道されていた。だがその後も飲酒運転が絶えず犠牲者が後を絶たない。自分は大丈夫だ、そう言い聞かせ、入ってくる情報はあくまでも他人ごとと捉えているのだ。悲しいかなそれが人間であり、同じことが何度も繰り返されてしまうのである。
 
 人間の内面に関する難しい問題は一先ず傍に置いて、他人にやさしい、逗子を住み良い街にする為に、私が度々言っているように、先ず笑顔で挨拶することから始めようじゃないか。挨拶は塞ぎ込んでいる人たちの心の扉の鍵を外すことができるかも知れない。もし悩みを抱いている人がいたら、https://www.inochinodenwa.org/lifeline.php いのちの電話宛てに連絡して欲しい。もしそれにも躊躇しているのであれば、さとう恵子事務所に連絡して欲しい。私たちが貴方の悩みを軽くしてあげられるかも知れない。私たちは貴方を応援している。

 「頑張れ、負けるなよ、絶対負けるなよ」 

                                            ( 事務局 )